江戸方から上州路を経て、難所碓氷峠を越え信濃路に入った中山道は、浅間山を仰ぎながら芦田宿、長久保宿、和田宿を過ぎると再び難所・和田峠を越える。その先にある下諏訪宿は甲州街道との合流点であると同時に、豊富な温泉が湧くところで、難所続きの旅人はその賑わいに触れ、身体を癒したことだろう。
現在も旧中山道沿いには本陣の建物や旅館街が古い町並を残し、信濃国一宮である諏訪大社下社(春宮・秋宮)もあり観光客も多く訪れるところである。
二つの諏訪大社の中間、中山道沿いの坂道に温泉旅館「鉄鉱泉本館」がある。隣には共同浴場・旦過の湯があり地元客を中心に入浴客の訪れが絶えない。温泉街の中心といってよい場所である。
玄関を潜ると無人の様子だったが程なくしてご主人が出て来られ早速部屋、風呂など手早く案内いただく。上がり框にはスリッパが一足しか用意されていなかったので、もしや貸切では?と思ったが、既に到着済の御客があるようだ。ただし、浴場は複数あるので案内された奥の建屋の岩風呂は、今から明日朝まで私専用の温泉である。
部屋は玄関棟から階段を昇り一つ奥の建屋に入り、そこからさらに急な階段を三階に上がったところであった。情報によると、表側の中山道に沿う部屋は格式極まるようだが、先客が利用されているらしい。しかし、入口の引き戸を開けると四畳ほどの間を挟み畳も新しく入れ替えた八畳間、床の間などの意匠は簡素ながら居心地はよく、十分である。それにしても、中山道沿いから旅館正面を見た感じからは想像がし難い複雑な建て方のようだ。奥の建屋からさらに左側にも階段があり、風呂や食事場所はまた別の階段を経由するようになっている。
食事時に料理を運んでこられたのは女中さんかと最初思ったが、恐らくご主人の娘さん(若女将?)ではないかと思う。何しろ今日の客は私ともう一人の女性客だけなので、丁寧に料理の説明をいただくついでに色々旅館のことをうかがうことができた。
・創業は明治37年、それ以前より旅籠業をされていたといい、今の玄関のある棟は当時のままである。
・私の泊っている部屋は築80年、さらに昭和後期?に増築されたRC造りの新館がある。
(翌朝、建物の裏に廻ってみるとその様子がわかり、私の泊った部屋部分のみが三階建てになっていた)
・鉄鉱泉という屋号は、初代の女将が創業前に町の山間部にある毒沢鉱泉の宿で湯を扱う役をしており、温泉成分から俗に鉄鉱泉と呼ばれていたことから、新たに町中に温泉旅館を立ち上げるにあたり、鉄鉱泉と名付けたとのこと。
料理は一言でいえば大層なものであった。まず驚いたのが一品ずつコース料理風に供される形式だったことで、地物産の材料に徹底的にこだわり、メニューによっては創作感もある。ご主人のこだわりの品々なのか、女将ご不在とのことで若女将がこしらえたのか、又は専属の料理人でもいるのか、その辺りは良く判らない。しかし、この旅館の構えに似つかわしくないといえば失礼だが、ちょっとしたレストランのようにBGMも流れているではないか。実際の所、この食事だけでも商売できるように感じた。
馬刺しを入荷しているがどうかと到着時にご主人に聞かれ、いただきましょうと返事しておいたのも良かった。冷凍ものではなく実にまろやかな舌触りで、ビールに始まり諏訪地方の地酒、塩尻ワインと追加した酒類との相性も抜群だった。
もちろん温泉も到着後、就寝前、未明と三回味わい満足の1泊となった。「旦過の湯」と同じ源泉のものが引かれ、熱めの湯がかけ流され新鮮そのものであった。
書くタイミングを失ったが最後に記しておきたいのは、旅館の玄関を潜った時の重厚感、格式高い感じが見事なものということだ。旅館について最初に眼にする旅館内の風景だけに、非常に印象に残る場所だ。立派な木目の1枚板を用いた床材、高い天井には黒光りする梁材、階段奥に目立たないように配慮された受付部分。ご主人以下が到着した客に落着きと格式を感じてもらうように配慮されたさまが感じられる。
旅館周辺には、他にももと宿泊施設だったと思われる建物が見られた。丘の上の街道沿いには幾つか旅館が見られるが温泉地全体としての状況はどのようなものなのだろうか、若女将の話によると中山道を歩く趣味の方々の利用もあるといい、和田峠を越えてちょうどここらでという具合になるのだそうだ。長く続いてほしいものと願いながら後にした。
(2024.05.31宿泊)
玄関先のこちらも温泉
玄関を入り見る風景
二階への階段から玄関方向
案内された三階の部屋
裏側の道から見ると三階部分、増設の新館の様子が判った
貸切で利用した温泉浴場
コース料理的に運ばれる夕食の品々 馬刺は追加したもの
朝食
昭和的な案内標識と防火扉の文字 結婚式場もあるようだ
# by mago_emon3000 | 2024-06-16 17:57 | 関東・信越の郷愁宿 | Comments(0)